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【エッセイ】 植木屋雑記帳

 正月にパソコンのデータを整理していたら、昔書きためていたものが出てきましたので、

 久しぶりに『植木屋雑記帳』http://www.uekichi.net/zakki/index.htmを更新しました。

 仕事しながら感じた、日々の雑感のようなものです。

 

 さて、現場は一昨年秋に作庭させていただきましたお庭。

 

 こちらの北側の法面沿いに板塀を作り、石を並べてゆきます。

 

 陽の当たらない冬場の北庭の工事は凍てつきますが、鼻水垂らしながら頑張ります。

 

 

| エッセイ | 07:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
【エッセイ】祖母の庭
 先にお手入れに入った庭の金木犀の陰に、半夏生草が咲いていた。それを見て、その前日が祖母の命日だったことを思い出した。

 半夏生 余生短くなりにけり

 六十の歳から俳句を続けていた祖母の最期の句だ。
 祖母が亡くなった夏は、記録的に暑い夏だった。連日、実家のある広島の気温は四十度近くまで上がり、窓から吹き込む風もただ熱いだけで、涼を取る助けにはならなかった。
 一日中冷房を効かせた北側の部屋で、祖母は昼夜なくうつらうつらとしていた。
 せめてもの季節の移ろいを、と、近所の農産物の直売所で花を買い求めては、花瓶に飾っていた。野菜を出荷する農家が、近隣にある野の草花をそのまま持ってきていたのだろう、何の変哲もない小菊に混じり、花屋では見かけることがない、野草も時折置かれていた。
 意識もかなり朦朧としていた祖母が、飾った花を愛でる余裕があったのかどうかはよく分からない。ベッドに横たわる祖母の横で、半夏生はまるで野の風に吹かれているかのように、冷房風に微かに揺らいでいた。


 思えば、私が庭と庭師という存在を明確に意識するようになったのは、祖母を通じてだった。
 岡山の自宅が全焼した後、祖父母は、広島の私の父母が近所に住めばいい、と勧めたのにも頑なに耳を貸さず、全焼した家と同じ町内の少し離れた場所に中古で家を買い求めた。
 私の幼い頃の記憶では、祖父母はあまり庭に関心があったようにも思えなかったが、おそらく、祖父母は文化的なものに対する渇望にも近い憧れを持っていたのだろう。生涯の最期となる家を、憧れであった庭のある、文化的な住まいにしたかったのではなかったかと思う。
 これまで住んでいた家に比べ、敷地の面積が広く、庭を造るには充分だったそこに、祖父母は、かつての近所に住んでいた庭師に、庭づくりを頼んだ。
 祖父母は、庭の善し悪しが分かる人ではなかった。ただ、庭のある家が出来たことを喜んでいた。
 数年経って、夫をともなって祖父母の家を訪れたとき、祖母が嬉しそうに庭の話をする横で、夫はただ言葉に窮していた。後で聞けば、一カ所くらい誉める部分があればいいのだけれど、誉められる部分がなかったのだ、と言う。苦心して捻り出した夫の言葉は、「石はいいものを使っていますよ」だった。
 祖父が亡くなった後に、新盆の準備などで何度か夫とともに祖母の家を訪れた。
 祖父が大切にしていたという、前の家から移植した金木犀は年々調子が悪くなっていた。見てみれば、円形に石積みをした植鉢の中に高植にしてある。だが、植鉢の広さは、一見して金木犀の充分な根の発育に足りないことは明らかだった。
 夫があり合わせの道具で石積みを崩し、植鉢の面積を広げ、堆肥を土壌に混入した。金木犀は石積みの間に、あえかな根を精一杯張り巡らせようとしていた。
 だが、金木犀だけでなく、庭の樹木すべてがそんな調子だった。元々冴えない庭であったが、西日本地方に多い花崗岩が風化した真砂土で一面客土された土壌は、栄養分に乏しく、植物は生長することができなかったのだろう。
 最初から樹形のよくない木ばかり植えてあったが、落葉樹は、さらに枝先から枯れ、目も当てられなくなった。
 亡くなる年の春先に、身を寄せていた広島の実家から両親に連れられ、自宅へ戻った祖母は、そんな庭の様子を見て、悔し泣きをした。
 庭を作った庭師は、祖父母が健在の時は、木を買わないかと度々訪れていたらしいが、夫が崩した石積みを見て、「私がこのお庭にしてやれる事はもうありませんな」と近所の人に告げて帰ったという。
 金木犀は次の年、弱々しかった枝からいっせいに芽吹き、花をたくさん付けた、と母が電話口ではずんだ声で話していた。

 
 アジサイが見たいのだ、と病床にいる祖母が急に言い出したことがあった。夕暮れ、少し涼しくなった日を選んで、車に乗せて連れ出した。母が、確かここにアジサイがたくさん咲いていたはずだ、という河川敷に、アジサイは影も形もなく、空き地は見知らぬ公園に姿を変えていた。
 もうこの辺りは、アジサイ一つを探すにも苦労するようになってしまったのだ、と落胆しながら帰宅し、後日ホームセンターでアジサイを三鉢買い求めた。
 祖母のベッドから見られる窓の外に、アジサイを置いた。祖母は、ベッドに横たわったままアジサイを見ながら、「きれいじゃなぁ」と小さくつぶやいて、涙ぐんだ。その後、祖母が自分から障子を開けてアジサイを見ることがあったのかどうかは分からない。

 もしかすると、死を目前にした祖母が、自宅の庭を見ながら目を細めて、少し誇らしげに「きれいじゃなあ」「見事じゃなあ」と言う、そんな事があってもよかったのかもしれない、と思う。
 春一番に祖母が好きなサンシュユが明るく花を付ける。梅雨から夏へ向かい、緑は波打つようにあふれ、足下には半夏生や、アジサイが揺れる。秋に金木犀が香り豊かに花を咲かせ、落葉の頃、サンシュユの実もたわわに、裏にある山を借景に、様々に色を織りなす。冬の落葉した木の枝振りもまた美しい。
 祖母の庭はそんな庭であってもよかったのだ。

 三周忌の今年、あの夏ほど広島は暑くないそうだ。祖母のあのアジサイはまだ庭先にあるのだろうか、それとも、あの後の暑さで枯れてしまっただろうか。祖母の墓前にその報告だけをしたいと思う。
 
| エッセイ | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
【エッセイ】石積の思い出
 四国山脈に連なる山々は険しい。累々とした狭い谷筋、どこまで行っても平野は開けない。斜面は、石ころを一つ落とせばどこまでも転がってゆくような急角度だ。細い川筋に沿ってある道から見上げれば、頂上は高く、その先に一層高く、空が青い。少し入り組んだ集落に行けば、どこででも平家落人伝説の痕跡を見つけることが出来る。
 私の父が生まれ育ったのは、そんなところだった。
 人々は石を積む。なぜならば、そうしなければ平らな地面が得られないからだ。畑は斜面をそのままに耕すが、稲作はおろか、家屋を建てる平地にさえ事欠く。父の生家も又、石を積んでようやく猫の額ほどの平地を確保した場所に建てられていた。祖父の代よりもさらに前の代、林業が良かった頃に積み直されたという石積は、二重についてあるのだと、伯母が誇らしげに言った。道路から小路の通る斜面を降りて、古い茅葺きの建物へ向かう。「伊予の青石」の名で知られる緑泥片岩が通り道に無造作に階段状に並べられている。その上を馴れない足取りで歩いて降りる。平べったい小石が時折足の先に触れ、転がり落ちてゆく。転がる小石もまた青色をしている。小石の表面の艶や褶曲線、角張った輪郭は、祖母の白内障になった瞳孔の色や肌に寄った皺を思わせた。
 夏の日、家の眼下にある小川へ遊びに出かけた。子供の足でも踝ほどの深さしかない流れは、大人の足では一跨ぎだ。日傘をさした伯母と一緒に沢ガニをつかまえる。視線を上げてみれば、はるか上の方に祖母の家の石垣が見える。斜面には、どこまでも棚田が連なり、石垣はゆるやかな曲線を描いていた。あの石垣も、この石垣も、私の父祖が積み上げたものだ。棚田の上、杉林の山頂のさらに上から、溢れんばかりの夏の光がふりそそぎ、青石は宝石のように輝いていた。空の青さを吸ってこの石はこんなに青いのだ、と思った。沢ガニは、棚田の石垣の隙間、どこにでも出入りする。家の側の石垣からもひょこひょこと顔を出した。食べても泥臭くて美味しくない、と大人の誰かが言った。私はひどく落胆した。
 私が10歳にならないうちに父の生家は焼失し、それを機に父は不便過ぎる故郷の地を手放した。戦場から生き残って戻った祖父は早くに亡くなり、100歳近い祖母は今や痴呆となって過去を思い出さず、私はこの里の来歴を知りようがない。なぜあんな場所に田を、家を築かねばならなかったのか。肥沃な田園地帯の生まれ育ちである母は、最初に父の生家を訪れた時に出された米が不味く、食べる事ができなかった、と言った。あの地は決して稲作をするのに適した場所ではない。たぶん、父祖は食べるためだけに石を積み、水を引き、米を作ったのではない。何かに押されるように、促されるように、自然のこととして石を積んだのだ。それは、生活の飢(かつ)えとも言うべきものだったかもしれない。人は口に糊し、日々を繋ぐ暮らしだけでは満たされない。父祖にとっては、何よりもただ石を積むことが必要だったのだ。精神の飢えは文化を生み、生活の飢えは風景を生む。そう、だからこそあの景はあんなにも美しいのだ。
 もう墓所以外に父祖たちと私をつなぐものはない。ただ石垣だけが、父祖の生活の痕跡として残っている。



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石積は意思の積み重ね石積作法 建築資料研究社から出ているガーデン・テクニカル・シリーズ『石積作法』の中に、高知県檮原町で石垣畦を作り続けた西川治夫さんという方のインタビューがある。一読して、私の父の故郷と言葉が似ている、と思った。父の生まれは愛媛県の南予地方だが、高知と言葉が近い。イントネーションは若干違ってくるが、文字に起こせば、さしたる差は感じられない。西川さんの言葉は、私の父祖の姿と重なり、こんな文章を書いてみた。
| エッセイ | 17:32 | comments(2) | trackbacks(0) |
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