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【エッセイ】祖母の庭
 先にお手入れに入った庭の金木犀の陰に、半夏生草が咲いていた。それを見て、その前日が祖母の命日だったことを思い出した。

 半夏生 余生短くなりにけり

 六十の歳から俳句を続けていた祖母の最期の句だ。
 祖母が亡くなった夏は、記録的に暑い夏だった。連日、実家のある広島の気温は四十度近くまで上がり、窓から吹き込む風もただ熱いだけで、涼を取る助けにはならなかった。
 一日中冷房を効かせた北側の部屋で、祖母は昼夜なくうつらうつらとしていた。
 せめてもの季節の移ろいを、と、近所の農産物の直売所で花を買い求めては、花瓶に飾っていた。野菜を出荷する農家が、近隣にある野の草花をそのまま持ってきていたのだろう、何の変哲もない小菊に混じり、花屋では見かけることがない、野草も時折置かれていた。
 意識もかなり朦朧としていた祖母が、飾った花を愛でる余裕があったのかどうかはよく分からない。ベッドに横たわる祖母の横で、半夏生はまるで野の風に吹かれているかのように、冷房風に微かに揺らいでいた。


 思えば、私が庭と庭師という存在を明確に意識するようになったのは、祖母を通じてだった。
 岡山の自宅が全焼した後、祖父母は、広島の私の父母が近所に住めばいい、と勧めたのにも頑なに耳を貸さず、全焼した家と同じ町内の少し離れた場所に中古で家を買い求めた。
 私の幼い頃の記憶では、祖父母はあまり庭に関心があったようにも思えなかったが、おそらく、祖父母は文化的なものに対する渇望にも近い憧れを持っていたのだろう。生涯の最期となる家を、憧れであった庭のある、文化的な住まいにしたかったのではなかったかと思う。
 これまで住んでいた家に比べ、敷地の面積が広く、庭を造るには充分だったそこに、祖父母は、かつての近所に住んでいた庭師に、庭づくりを頼んだ。
 祖父母は、庭の善し悪しが分かる人ではなかった。ただ、庭のある家が出来たことを喜んでいた。
 数年経って、夫をともなって祖父母の家を訪れたとき、祖母が嬉しそうに庭の話をする横で、夫はただ言葉に窮していた。後で聞けば、一カ所くらい誉める部分があればいいのだけれど、誉められる部分がなかったのだ、と言う。苦心して捻り出した夫の言葉は、「石はいいものを使っていますよ」だった。
 祖父が亡くなった後に、新盆の準備などで何度か夫とともに祖母の家を訪れた。
 祖父が大切にしていたという、前の家から移植した金木犀は年々調子が悪くなっていた。見てみれば、円形に石積みをした植鉢の中に高植にしてある。だが、植鉢の広さは、一見して金木犀の充分な根の発育に足りないことは明らかだった。
 夫があり合わせの道具で石積みを崩し、植鉢の面積を広げ、堆肥を土壌に混入した。金木犀は石積みの間に、あえかな根を精一杯張り巡らせようとしていた。
 だが、金木犀だけでなく、庭の樹木すべてがそんな調子だった。元々冴えない庭であったが、西日本地方に多い花崗岩が風化した真砂土で一面客土された土壌は、栄養分に乏しく、植物は生長することができなかったのだろう。
 最初から樹形のよくない木ばかり植えてあったが、落葉樹は、さらに枝先から枯れ、目も当てられなくなった。
 亡くなる年の春先に、身を寄せていた広島の実家から両親に連れられ、自宅へ戻った祖母は、そんな庭の様子を見て、悔し泣きをした。
 庭を作った庭師は、祖父母が健在の時は、木を買わないかと度々訪れていたらしいが、夫が崩した石積みを見て、「私がこのお庭にしてやれる事はもうありませんな」と近所の人に告げて帰ったという。
 金木犀は次の年、弱々しかった枝からいっせいに芽吹き、花をたくさん付けた、と母が電話口ではずんだ声で話していた。

 
 アジサイが見たいのだ、と病床にいる祖母が急に言い出したことがあった。夕暮れ、少し涼しくなった日を選んで、車に乗せて連れ出した。母が、確かここにアジサイがたくさん咲いていたはずだ、という河川敷に、アジサイは影も形もなく、空き地は見知らぬ公園に姿を変えていた。
 もうこの辺りは、アジサイ一つを探すにも苦労するようになってしまったのだ、と落胆しながら帰宅し、後日ホームセンターでアジサイを三鉢買い求めた。
 祖母のベッドから見られる窓の外に、アジサイを置いた。祖母は、ベッドに横たわったままアジサイを見ながら、「きれいじゃなぁ」と小さくつぶやいて、涙ぐんだ。その後、祖母が自分から障子を開けてアジサイを見ることがあったのかどうかは分からない。

 もしかすると、死を目前にした祖母が、自宅の庭を見ながら目を細めて、少し誇らしげに「きれいじゃなあ」「見事じゃなあ」と言う、そんな事があってもよかったのかもしれない、と思う。
 春一番に祖母が好きなサンシュユが明るく花を付ける。梅雨から夏へ向かい、緑は波打つようにあふれ、足下には半夏生や、アジサイが揺れる。秋に金木犀が香り豊かに花を咲かせ、落葉の頃、サンシュユの実もたわわに、裏にある山を借景に、様々に色を織りなす。冬の落葉した木の枝振りもまた美しい。
 祖母の庭はそんな庭であってもよかったのだ。

 三周忌の今年、あの夏ほど広島は暑くないそうだ。祖母のあのアジサイはまだ庭先にあるのだろうか、それとも、あの後の暑さで枯れてしまっただろうか。祖母の墓前にその報告だけをしたいと思う。
 
| エッセイ | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
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